個人的神殿

プログラミング

岩波書店 プラトン全集 1巻 エウテュプロン

 ポイントだけおさえて要約しただけのものです。間違ってたらコメントで教えていただけると嬉しいです。

,役所の前でエウテュプロンとソクラテスがバッタリ出会う。ソクラテスが公訴されたという。

 

,エウテュプロンが理由を聞くと、新奇な神々を創作して、国家の認める古来の神々を礼拝しないからだということだ。

 

,恐るべき力を持つ者でも、自分の知恵を人に教えるのでなければ、アテナイ人は気にかけない。しかし他の者達を同類にしようとすると腹を立てる。
まぁただ嘲笑されるだけなら良いが、もし国が本気になろうものならどうなることやら……と少し心配しているソクラテス

 

,エウテュプロンが父親を訴えると言う。理由を聞くと、父親の雇い人の1人が、酔って奴隷の一人を殺してしまったからだと。父親が怒ってその雇い人を縛って溝の中に放り込んで放置していたが、使いの者が来る前にその雇い人が死んでしまったと。

「息子が父親を殺人罪で訴えるなんて不敬虔なことだというわけです。彼らときたら敬虔と不敬虔とに関する神々の法のあり方をほとんど何も知らないのですからね。」

ソクラテスは、「君は神々の方のあり方、敬と不敬について正確に知っていると?」と言う。

 

,略

,敬虔と不敬虔の定義について聞かれたエウテュプロンは、敬虔とは、何か罪を犯した人が父親だろうと誰であろうと、訴え出ることだと言う。皆が認めるゼウスも父クロノスを追放し、クロノスもその父ウラノスを去勢したのだと。

,それは敬虔なことのうちの一つだから、そうではなくて敬虔の相(すがた)そのものを教えて欲しいとソクラテス
それを受けてエウテュプロンは、神々に愛でられるものが敬虔、そうでないものが不敬虔だと言う。

ソクラテスは褒めるが、正しいかどうかを検討しようと言う。
神々も内輪争いをする。だから同一のものが愛されもすれば憎まれもする。つまり同一のものが敬虔でも不敬虔でもあることになってしまう。

 

,しかしこの問題に関してはどんな神も同じ意見だとエウテュプロン。
不正を犯した人は、不正を犯したが罰を受けるに及ばないと言うのではなく、不正を犯していないと主張するのであり、神々も同じく、互いに相手が不正を犯していると主張するのだとソクラテスは言う。


10,エウテュプロンの父親の行為について、またエウテュプロンの行為について、すべての神々が不正だ、とか正しいとか考える証拠を教えてくれ、とソクラテス
もちろん、とエウテュプロンは言う。

 

11,しかしまぁ、とりあえず君の問題はそういうことにする、とソクラテス
結局全ての神々に愛でられるものが敬虔、全ての神々に愛でられないものが不敬虔だという定義でいったん合意する。
そしてまたそれが的確かどうかを検討し始める。

 

12,敬虔なものは、敬虔なものだから愛されるのか、それとも愛されるから敬虔なのか、とソクラテスは聞く。
例えば運ばれるものは運ばれるから運ばれるものであり、愛されるものは愛されるから愛されるものだと言い、エウテュプロンも同意する。

そして、敬虔なものというのは、敬虔なものであるから愛されるのだとエウテュプロンは言う。

とすると、神々に愛されるものが敬虔なものというわけではなく、また敬虔なものが神々に愛されるというわけではない、とソクラテス


13,この2つは同一ではないとソクラテスは言う。
一方は愛されるから、愛される性質のものであるのに対し、他方は愛される性質のものだから愛されるというわけだ。

つまり、敬虔なものというのは愛される性質を持っているわけだが、愛される性質を持っているというだけであって、愛されるものそのものだというわけではない。(他にもいろんな性質を持っているかもしれない)

これでは敬虔なものの本質が明らかになっていない。もう一度言ってくれとソクラテスは言う。

しかしどう言えばいいか分からない、我々が言うどんな定義もじっとしてくれない、とエウテュプロン。軽い冗談を言い合ったあと、ソクラテスは聞き方を変える。

敬虔なものは、すべて必然的に正しいものでなければならないかと聞くと、そうだとエウテュプロンは言う。

では、正しいものはすべて敬虔なものか、それとも一部は敬虔なものだが一部はまた別のものなのか、と聞くと、敬虔なものは正しいものの一部分だとエウテュプロンは言う。

14,では、敬虔なものは正しいもののどのような部分であるか、とソクラテスは聞く。
正しいもののうち、神々の世話に関わる部分が敬虔であり、人の世話に関る部分が残りの部分だとエウテュプロンは言う。

15,見事だ、しかし世話というものが何なのかを考えなければならない。
世話というのは、世話されるものの善や利益を目指しているよねと言い、エウテュプロンは同意。

では敬虔なことを行うというのは、神々をよりすぐれたものにするということかと聞くと、エウテュプロンは、いやそうではなくて奴隷が主人を世話する、あの世話だと言う。

なるほど、神々への一種の奉仕術のようだねとソクラテス

16,医者への奉仕術は健康の達成のため、建築家への奉仕術は家の完成のため、では神々への奉仕術はどんな達成のためだ?とソクラテス
それは多くの美しい仕事だとエウテュプロン。
それでは何でも同じだよ。その美しい仕事の要点は?とソクラテス
それを知るのは難しいが、簡単に言うと、人が祈りや犠牲を捧げる際、神々に嘉納されることを言ったり行ったりすることをわきまえているなら、それが敬虔である、とエウテュプロン。


17,違う定義を持ち出してきたことに少しがっかりするソクラテス
敬虔というのは、犠牲を捧げたり祈ったりする知識の一種か?とソクラテスが聞くと、エウテュプロンはそうだと言う。

つまり神々への奉仕というのは、神々に請願し、贈り物をすることかと聞くと、エウテュプロンはそうだと言う。


18,正しい請願とは、我々が神々から得る必要のある物を請うこと、そして正しい贈り物の仕方とは、神々が必要とされている物を送ることだね、とソクラテスが言う。

つまり敬虔とは、神々と人間との間の一種の交易術だということになるが、我々の贈り物から神々が得る利益とは何なのかねとソクラテスが聞くと、
利益、というか尊敬や徳、感謝だ、とエウテュプロン。

とすると敬虔なものとは神々にとって有益なものでも愛されるものでもないということか?とソクラテス

いえ、何にもまして一番愛されるものだとエウテュプロン。

とすると敬虔なものというのはまたしても神々に愛されるものだということになるな、とソクラテス

19,さっき、敬虔なものと神々に愛されるものは別のものだと明らかになったわけだが、そうするとあのときの同意が的確でなかったのか、今の定義が正しくないのかのいずれかだということになると合意。

20ソクラテスは再び最初からやり直さないといけないと言うが、エウテュプロンはもう時間が無いと言ってその場を立ち去る。
ソクラテス、少し嘆いて終わり。