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プログラミング

岩崎 武雄『西洋哲学史』 第1章のまとめ

 学校の図書館でたまたま手にとったこの本が面白かったので、第1章(創始期の哲学)を自分用にまとめた。デモクリトスという人が紀元前でもう既に原子の存在に気づいていたということは知っていてそれはすごいと思っていたのだが、それまでにどのような流れがあったのかは知らなかったからかなり新鮮だった。


第1章 創始期の哲学

1.ミレトス学派

 それまでは神話的に世界を説明しようという傾向が強かったが、そういった態度は捨て、世界を世界そのものから説明しようという動きが始まった。世界のアルケー(根源、原理、原質)というものがあり、それは世界のあらゆる現象の生成変化の中にあってかつ変化しない何かが存在するとして、それが一体何なのかを考えた。
 かの有名なタレスは、それは水であると言い、アナクシマンドロスは無限なるものと言った。有限なものからあらゆるものが生まれることは無いという理由らしい。そしてアナクシメネスは空気であると言った。それこそが無限なるものであると考えたのだろう。

2.エレア学派 vs ヘラクレイトス

 しかしアルケーが存在するとは言っても、それがなぜ存在し、なぜ生成変化するのかということについては触れられてはいなかった。このなぜに注目し、また存在と変化の両立は不可能であるという意見から、2つの立場に分かれることになる。

(a) 存在を重視して生成を否定し、アルケーの、一切のものの根源であるという性質にのみ注目。
(b) 生成を重視して存在を否定し、アルケーの、生成変化するという性質にのみ注目。

(a) エレア学派

(1) クセノパネス
 彼は詩人であり、また宗教家でもあった。多神教を否定し、アルケーというのは一にして一切であり、不動不滅の神であると考えた。

(2)パルメニデス
 クセノパネスの神の概念をさらに抽象化し、「有るもの」こそが真実であると考えた。この「有るもの」には以下の特徴がある。

 ①「有るもの」は不生不滅
 ②「有るもの」は不可分
 ③「有るもの」は不変不動

(3)ゼノン
 これまでの「有るもの」の思想を受け継ぎ、自分の思想とは反対の、雑多と運動をいったん認める立場に立ち、矛盾を導くという論法を取った。(アリストテレスは彼を弁証法創始者であると言った。)

(4)メリッソス
 彼もパルメニデスの「有るもの」の思想を受け継ぎ、更に「有るもの」は空間的にも無限であると考えた。

(b) ヘラクレイトス

 一切はただ生成変化するのみであると考えた。(有名な、万物は流転するという言葉はこのことであった。)そしてアルケーとは火だと言ったが、常に生成変化し続けるものの代表的な意味合いがあったそうだ。ただ唯一不変なものがあり、それは生成変化の法則「ロゴス」であると考えた。これがあるおかげで、世界は常に変化し続けているにも関わらず秩序を維持できていると考えた。

3.ピタゴラス学派と多元論者

 当然だが、それまで対立していた存在と生成変化、この2つを共に認めようと動きが出てくる。

(a) ピタゴラス学派

 アルケーは数であると考えた。この変化的な事物の世界は、数の世界をまねて作られたという。数というのは、「有るもの」と同じく永遠不動の存在であり、かつ変化家的な事物である、というのも、この世界の事物が変化するのに対してその中にある数的な関係は決して変化しないかららしい。(数学や音楽、天文学などの研究から)

(b) 多元論者

 存在と生成変化が両立するとはいっても、なぜ両者が矛盾無く存在できるのかを考えた。多数の「有るもの」が存在し、それらの運動によってあらゆるものが生成される、つまりアルケーは多数存在していると考えた、という意味で彼らは多元論者と言われている。

(1) エンペドクレス
 アルケーは、火、水、空気、地であると考えた。この4つは不生不滅だが、互いに性質が異なっておりまた分割は不可能である。
 どのようにして生成が生じるかというと、この4つの元素が様々な割合で混合することで様々な性質を持った現実の事物が生成し、また混合されたものが分離することで消滅する。では何によって混合が起こるかというと、それは「愛」と「憎」という何か神秘的な力を持つものであると考えた。

(2) アナクサゴラス
 エンペドクレスの話を拡張し、アルケーはこの4つの元素に限らず、現実に存在する無数の事物が持つ無数の性質の数だけ無数のアルケーがあると考え、それを種子(スペルマタ)と呼んだ。4つの元素だけでは、無数の性質を説明できないと考えたらしい。
 では何によって混合が起こるというと、それは精神(ヌース)であると言った。ただこれは混合の一番最初に作用するのみで、一度運動が始まれば種子たちの混合や分離は機械的に行われるのだという。

(3) デモクリトス
 アナクサゴラスの話と似ているが、種子は性質的差別を有するものとは見ず、それらは量的な差別、すなわち形態や大きさなどが違っている、そしてそれをアトム(原子、不可分なもの)と呼んだ。
 パルメニデスの「有るもの」と同じく不生不滅だが、運動は認め、その運動によって生成変化を説明しようとしたが、運動が可能なためには動くための空虚な空間が必要となる。パルメニデスはそれを「有らぬもの」としてその存在は否定したが、デモクリトスは「有らぬもの」は有る、という風に考えた。つまりパルメニデスの「有るもの」を無数に多くのものに分割して、それらを空虚な空間の中で運動させたということだ。この運動によって原子たちが相互に衝突し合って混合や分離が行われる、その過程こそが生成である。色や味などの感覚的な性質も、ただアトムの運動によって現れているだけであるとも考え、つまりそれまでのいわゆる質的差別を量的差別に還元している。
 ではなぜそのような運動が起こるのかという話になるが、今までは何か別の力が働いて運動していると言うのが一般的だったが、デモクリトスは、他に原因は無くただアトムというのは運動する性質を持っているから運動しているだけのことだと言った。

 ここに機械論的な世界観が打ち立てられることとなる。